病のあとに起きた不思議な体験

国際スピリチュアリスト教育の専門家  叶礼美です。

 

今日は、

遠い異国の地で病に倒れ、
臨死体験とも言える経験を通して私が得た思いと、

その後の体験をお伝えします。

 

もしよろしければ、この記事の前に
異国で病に倒れる経験についての記事はこちら
臨死体験についてはこちらの記事をご覧になってくださいね。

 

 

記憶喪失の自分を背後から見ている記憶

死とは、恐れるべきものではない。

 

大切なのは、愛だ。

 

これが、遠い北欧の地で、私が体験した最大の気づき、理解でした。

 

 

言葉は、とってもシンプルですが、その裏にはさまざまな想いが詰まっています。その奥行きまでは、とても一言で言うことはできません。

 

それでも「命の淵」に触れる体験は、

 

死への恐れという囚われからの圧倒的な解放と

 

愛の力に対する圧倒的な気づきでした。

 

・・・

 

でも、体験はここで終わらなかったのです。

 

そのあと私はさらに不思議な体験を重ねることになりました。

 

どれくらい時間が経ったのか、おぼろげですが、

 

目覚めているときは、薬がきれると、全身がちぢこまって手足をまっすぐ伸ばすことができないほどの震え。

 

そうするとナースコールで薬を貰い、しばらくすると、縮こまっていた体を伸ばせるようになります。

 

時間の感覚がなかったのは、眠ったり目覚めたりを繰り返していたこともありますが、真夜中まで外がずっと明るかったせいもあるかもしれません。

 

このときは、症状が落ち着いていて、ベッドで起きていることができました。

 

そこで、この不思議な出来事が起きました。

 

長期の記憶が障害される

 

実家に国際電話をしよう。と思い、ベッドわきの受話器をとりました。

 

すると、20年以上同じ実家の電話番号が思い出せないのです。

 

体に染みついているはずの実家の電話番号が全く思い出せない・・・

 

普段は考えるまもなく、手が動いて電話をかけられるはずなのに、何度思い出そうとしても、思い出せません。

 

何度か試みましたが、何度やっても思い出せないので、電話を掛けるのはあきらめました。

 

短期の記憶が障害される

 

しばらくして、センターのなかで唯一、流暢に英語を話す看護士さんが病室にやってきました。手続きに必要だったのでしょう、パスポートが必要なようでした。それはそうですよね。

 

そこはフィンランドの地方都市。

 

今でこそ難民もたくさんいるのですが、2000年のフィンランドには、首都ヘルシンキでさえ、外国人をあまり見かけなかったほどですから、

 

地方都市ラハティの、しかも病院で外国人を見かけることはほとんどなかったのでしょう。

 

看護士さんは、言いました。

 

「あなたのパスポートはどこ?」

 

私は、パスポートの入っているバッグに目をやりました。

 

ここで、不思議なことが起きました。

 

「・・・・」

 

バッグを見た瞬間、自分がなぜ、バッグを見つめているのか、分からなくなってしまったのです。

 

それで、看護士さんのほうを振り返り、

 

「・・・・?」

 

看護士さんが、もう一度聞きます。

 

「あなたのパスポートはどこ?」

 

そう聞かれて、またパスポートの入ったバッグを見つめます。

 

でも、バッグに目を移した瞬間、もう何を質問されたか覚えていない。それで、看護士さんのほうをもう一度振り返って

 

「・・・・?」

 

さらに高次の「意識の座」がある

更に不思議なことは、

 

この看護士さんとのやりとりを、私は自分の背後から、見ている映像で記憶している、ということです。

 

電話番号の長期記憶、いましている会話を成り立たせている短期記憶が障害された状態の自分自身を、

 

背後、より正確に言うと少し上方から見ている自分が記憶している。

 

今ならそれが、

 

一時的に脳が機能していないように思えても、実はその後ろで、より高次の意識が働き続けていて、それを記憶している「意識の座」があるということ。

 

霊的なレベルの自己の意識が、自分の身に起きていたことを観察・記憶・把握しているし、記憶を参照できる。

 

ということが分かります。

 

肉体の意識がフルスペックで機能していないときでも、バックアップのメモリがあって、機能している・・・みたいな感じでしょうか。

 

でも、そのときは本当に不思議でした。記憶を思い出せない自分を覚えているのですから。

 

患者としての私の体験は、似た症状をもつ認知症のご家族がいらっしゃる方々や、看護士さん、お医者さんに、そんなふうに感じるものなんだな、と、多少参考にしていただけるかもしれませんね。

 

記憶をつかさどる、言語をつかさどる部分が障害されてからでは、説明すらできなくなってしまうでしょうから…。

 

読める、話せる、聴ける、動ける、伝えられる、記憶がある

 

そして生きている、ということは、本当に、素晴らしいこと。

 

決して当たり前ではないのだと思います。

 

 

 

 

そんな有難い、幸運な状況にあるのなら、幸せに生きないと本当にもったいないですよね。

 

なんとなく誰かが望むように生きる、のではなく、自分は本当は何がしたいのか。自分という人間の本質は何なのか。

 

人生という貴重な時間。

 

本当に、限りがあります。

 

その貴重な人生、過ごしている一日、一日が本当に宝物のように感じます。

 

言葉を失ったときに起きたこと

これも入院中の出来事です。

 

 

ヘルシンキに住む友人のマイヨから「レミ、心配していたの。大丈夫?」と電話がかかってきました。

 

私はというと、

 

「あー」「うー」

 

としか言えませんでした。

 

相手が言っていることは完全に理解できるように思うのですが、

 

いざ返事をしようと思った瞬間に、相手が何を言っていたか忘れてしまい、

 

言葉も全く出てこない。なにも浮かんでこない。真っ白です。

 

言えるのは、あー、うー、といった音というか声だけ。

 

ただただ、思い出せない。

 

ただただ、分からない。

 

ただただ、言葉が出てこない。

 

これは彼女をひどく心配させたようでした。

 

が、このとき私の中では、興味深いことが起きていました。

 

言葉が出てこないことによって、

 

イライラしたり、「なんで?」「どうしたんだろう?」「どうしよう!」という焦りの気持ちが起きていたわけではありませんでした。

 

若干の「もどかしさ」は感じたものの

 

・イライラも感じない

 

・焦りも感じない

 

・嫌気も感じない

 

・申し訳ないとも感じない

 

・何故だろうとの疑問も感じない

 

・悔しい、悲しいという気持ちもない

 

思い出せない、言葉が出ないことについて「善い悪い」「嫌、好き」の価値判断もないおかげで、

 

・とても平和な感覚

 

・極めてニュートラル

 

・こだわりのない感じ

 

・あれこれ考えを巡らせずただある状態

 

を体感したんですね。

 

私が体験していたのは、いわば「ニュートラル」な状態でした。

 

そこに「葛藤」はありませんでした。

 

「苦悩」もありませんでした。

 

ただただ、そこに「在る」だけ。

 

 

言葉が出ない、うー、あー、としか言えないので、返事ができない。

 

確かに、まともに意思疎通ができないので、伝わらないその瞬間はもどかしい感じがするのですが、その瞬間が去ると、そのわずかなもどかしさも、消え去ってしまいました。

 

過去を想起することもなく、遡って悔いることもなく、この先どうなるだろうなどと未来を思い煩って不安・恐れに駆られることもない。

 

考えを巡らしたり、思い煩うことをしない。その状態は、予想に反して意外なほどに心地よいものだった、と言えます。

 

ちょっと変に聞こえるかもしれませんね。

 

このあと、どれくらいたってからのことなのか、やっぱり覚えていないのですが、

 

言葉も、記憶も、元通りになりました。実家の電話番号や、ものの場所も思い出せるようになりましたし、質問されたら返事するまで質問内容を覚えていられるようにもなりました。

 

この「言葉を失う」という体験も、私にとって不思議な体験の一つで、いろんなことを教えてくれました。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

1、めったにない経験になった・・

 

2、言葉が話せて意思疎通できることのありがたさを実感できた

 

3、脳の機能に障害が起きたときに起こりうること、感覚を体験できた

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 

たとえば、認知症や後遺症など、障害の部位やもともとの気質性格などによっても、症状は勿論一人一人異なると思いますし、周りからみて平和そのものでも、内面では苦悩していたり、辛い葛藤を抱えているケースなども、もちろんあるはずと思います。

 

手助けする周りの方たちの負担も相当のもののはずで、安易に「よい状態だ」などというつもりはありません。

 

ただ私は、この一件以来、高齢のご老人が日中ぼーっとしたとしても、すぐさま「かわいそう」とか「さぞかしつらいだろう」「悲しいこと」などと思うことはなくなりました。

 

というより、そのように思っていたわけではありませんが、世間的な印象として漠然と抱いていた印象ががらりと変わりました。

 

『当人のなかで何が起きているのか、どんな体験をしているのか、それらをどうと捉え、感じているのか?』

 

ということと、

 

『周りの人から見て、その人の中で起きていることについて持っている印象や感情』

というのは、全く異なる可能性があるのだ、ということです。

 

それにしても、この言語障害や記憶障害がもとに戻って、本当によかったです。

 

いまこうして思い出したり、書いたり、話したり、後遺症なく復活できたということは、本当にありがたいことだなと思います。

 

あなたさんも、こんな想像をしてみてください。

 

もし、今日入院したら?

 

もし、今日家を思い出せなくなったら?

 

もし、今日が人生最後の日だとしたら?

 

 

 

強い感情を感じるはずです。

 

そして

 

健康の有難さ

 

脳がいつも通りに働いてくれていることの有難さ

 

生きていることの有難さ

 

を感じずにはおれないのではないでしょうか。

 

そして、

 

何かを伝えなければ。

 

何かしなければ。

 

と、意欲や力が湧いてくるのを感じるかもしれませんね。

 

生きたい、伝えたい。

 

その意欲を支える一番の力は、愛。

 

そんなことも気づかせてくれた、体験なのでした。

 

それにしても…。
記憶がきちんとつながって、脳が機能してくれているというのは、本当に素晴らしくありがたいことですね。
大事にしなくては、ですね^^

私にとっては、本当に大切な深い気付きを得た、そんな体験となりました。

 

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